松原充久的ココロ

ブランディング

自由な不自由(1)

白熱電球

1995年、インターネットに媒体を作ろうとしました。まだ、googleも、何もない時代。なにせwindows95なんですから。

1995年9月1日

凸版印刷という超優良巨大企業のさらに地方事業部で立ち上げようとしたのです。1990年頃からのパソコン通信がさらに自由に進化すると期待をもって。

エイプリルコミュニケーションの北川さんありがとうございました。

RealAudioを使ったインターネットラジオや、PDFを使った雑誌制作、ニュースアメイズランド

2000年、凸版印刷を退社しました。

ネガティブな事情もいろいろとありましたが、インターネット放送局を作るために。これは早かったのか、段取りがわるかったのか。

日本ではまだまだインターネットが市民権を得てはいなかった。常時接続は夜23時から、これは常時接続では単に定額制というだけ。

ISDNで、64kbps、今なら使いすぎて帯域制限されたより遅いスピード

この時代に放送と考えた。インターネットのオリジナルコンテンツを作ろうと考えた。

動画のスピードは無理だから、Windows Media Player を使って静止画のページめくり、紙芝居を作り出した。ドラマ EVE

山のようにあるインターネットのコンテンツを番組表にして、連続再生させたくて、コンテンツデリ(コンテンツデリバリー)を作った。これは絶対に成功すると確信していた。

それでも、説得できなかった。コンテンツとコンテンツの間に広告が入れたかった。広告だってデザインしたかった。

チーン

こつこつとやるなんて無いも同じ、ある程度きちんと表にでないとね、

この頃から企業と、インターネット、Mediaとインターネットの役割に疑問を感じ始めて、インターネット放送の会社を清算して、写真を撮って生計をたてて、

今はきちんとパーソナルプランディングを始めます。

→(2)へ、

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